戦国期の徳川氏 その7

 長い時間ご無沙汰していました。諸事情が有り文が進みませんでした。
 さて、今川領を分割した徳川家ですが、順風満帆と言うわけではなく三河・遠江を治めた段階で、前述の通り武田家と険悪な状態に陥ったことにより、北条・上杉等と手を組んで牽制をしていたようです。二方乃至三方から、武田領を攻めるのであれば、流石の信玄も困惑していたでしょうが、当の徳川家がそれを行う状態ではなかったという所でした。
 要は、同盟国である織田家の畿内(京)へおける上洛並びに、将軍家の即位と言いますか、実権の移動に際しての援護を務めたことと、後の朝倉家への出兵・浅井、朝倉家との決戦である姉川の戦い等に、出兵していたのが原因と考えられ、ある意味他の大名家が武田家を牽制している間は、自国が平穏であると言う前提での出兵であったということになりましょう。
 この時期において、尾三同盟も対等の状態では無いと思われ、かたや尾張・美濃を押さえ、伊勢や近江等にも勢力を伸ばした、勢いのある織田家と、三河と遠江を押さえた徳川家との国力の差が出た時期と重なり、次期の実力者(権威上とはいえ足利将軍家)の力を利用することで、国内の地位を向上させた部分があるので、援軍としての参戦は断れなかったということでしょう。
posted by 武将 at 00:23 | 歴史

戦国期の徳川氏 その6

 前回の話で、今川家を駿河から駆逐した状態で、大井川を境に徳川家と今川家所領を折半した形でしたが、遠江における徳川家の侵攻スピードが思っていたより遅かったのか、掛川城を攻略した際の文言が気に入らなかったかは不明ですが、友好関係にあった徳川家に対して緊張関係に陥る羽目になりました。ただ当時の武田家の国力からすると、徳川家自体の戦力は大きいものでは無いと写ったのでしょう。
 多分、誤算は氏真の奥方の実家筋である北条家が、徳川家が結託して、武田家を牽制に来たのが問題になったのでしょう。徳川家は別として、北条家は関東に基盤がある為、相応の戦力を割くことが出来る大名家であった為、油断ならぬというとこでしょう。無論親が子供が窮地の状態であれば、力を貸したいと言うのが建前ではあるでしょうが、武田家の勢力が伸びるのが面白くないのが現実ではないでしょうか?
posted by 武将 at 00:49 | 歴史

戦国期の徳川氏 その5

 今回は、大井川を境として、今川領を分割した武田・徳川家に対して論じてみたいと思います。前回は要約と言う形でざっと話しましたが、実際にどういう形で推移したのかというのと、各大名家の動きを合わせて見てみます。
 1568年の12月に武田家による駿河侵攻が始まったことにより、迎撃に向かった所で、駿河における有力な国人領主である朝比奈氏や葛山氏等が、見限ったところで駿河における抵抗ができなくなったことで、掛川城主の朝比奈泰朝の元に逃れたところに、遠江に徳川家の侵攻という形になったということです。
 では、大名家の実力(強さ等)で見ると。徳川家は三河を抑えて、これから遠江に侵攻という状態であり、三河自体を完全に治めているかは、怪しい部分があります。武田家は、甲斐・信濃・西上野等を治める有力な大名家ですが、北には上杉氏がおり押さえの兵を残さねばならないということと、北条氏が今川氏の支援に回ったことである意味出兵前よりいささか困難な状況に陥ってしまったとこがあります。今川家に関しては、室の実家である北条家の支援を受ける形で、対抗できる状況で待ち受けていたという状態での武田家における駿河侵攻でありました。
 ある意味、武田信玄の調略の凄みというのと、遠江混乱に見られる今川家の国人領主や譜代の家臣にも動揺が見られたということでしょうか…
 今回は徳川家とは関係ない気がしますが…。後ほど関係してきますのでということでこの辺りで。
posted by 武将 at 00:26 | 歴史

戦国期の徳川氏 その4

 1568年に、武田家との密約により今川家の所領分割という形で共同作戦を採った徳川家でしたが、調略の巧みさから駿河へ攻め込んだ武田家は早々と攻略に成功しました。徳川家も遠江の今川家の混乱に付け入る形で天竜川までの所領は早くに確保できていましたが、肝心の氏真が立て篭もる掛川城でやや手こずる形になり、ここで開城の条件として将来の氏真の駿河復帰を謳ったとも有り、これが原因かは不明ですが大井川を越えて、所領拡大というべきか、相手の力量を見る為かは分かりませんが、武田家の越境が有った為にそれまでの友好的状況から一変して緊張状態になりました。
 しかし、これはある意味武田家にすれば失敗と言える出来事かもしれません。一時的にせよ、北条・徳川氏による駿河において二方面作戦を強いられており、時間を費やす結果になる羽目になり、その間にも友好状態ではありましたが、織田家は勢力を拡大していくことになっていったのは、将来的に考えるとマイナスであったということです。
posted by 武将 at 22:53 | 歴史

戦国期の徳川氏 その3

 武田・今川・北条の三国同盟に陰りという部分からのスタートですが、同盟当時は各自の後背の安全を保つのと、敵対大名家が別に存在していたこともあり、強固な体制であったと言えます。崩れだすきっかけは勿論今川義元の討死にあると考えられ、それまでの三家のバランスを揺るがす事態に発展していくという具合でした。
 武田家が直面した問題としては、東の関東は北条家が抑えているということ。西は美濃を制圧した勢いの強い織田家。北は川中島で激戦を繰り広げた上杉家。南が当主が弱体化した今川家。要するに、大名家として勢力が鈍化してくると、他の国人領主を繋ぎ止めるのが難しくなるということ、勢力を拡大することにより豪族の連合体である大名家の地位を安定できるということで、北の上杉家には押さえを残して、南進策を図って所領の拡大を目指すという部分で、白羽の矢を立てたのが、三河の徳川家でした。
 徳川家としては、遅かれ早かれ今川家の遠江に侵攻したいところであったので、渡りに船の状況で、所領分割を快諾して徳川・武田による今川家侵攻が始まったのでした。
posted by 武将 at 23:17 | 歴史

戦国期の徳川氏 その2

 三河統一を果して、朝廷から三河守に任じられたことにより、三河における国人衆・小名や譜代の家臣団に対しても、一歩上に位置することが可能になり戦国大名としての体裁を整えたと言えましょう。
 さて、ここからどれだけ勢力を伸ばしていけるかが、戦国大名としての力量と言えます。無論西には同盟体制にある織田家が有り、自然的に手を伸ばす地域としては、東の今川領(遠江)が当然の流れとなったというべきでしょう。前後して遠江の今川家の基盤もかなり混乱しており、そこに触手を伸ばすのは容易いう状態でありましたので。ただ今川氏真も黙っていたわけではなく、時間が経ったにせよ混乱を収めているのも事実でありました。
 しかしながら、すでに周りの状況が一国の領土の力で図っていた状況から一変したということになります。同盟国たる北条家は、伊豆・相模・武蔵といった国々に影響を及ぼしており、武田家は、甲斐・信濃・上野の一部に勢力を伸ばし、織田家も尾張・美濃と支配しており、これらの大名家の動きによっては、徳川対今川で済む訳にはいかない状態になっていたということです。
 事実今川家・北条家・武田家の三国同盟にも陰りを見せていた時期で有りましたので…
posted by 武将 at 00:05 | 歴史

戦国期の徳川家 その1

 ここからは、三河統一を果した段階で、徳川に改称しましたので徳川家の話題から始めていきます。
 1566年に改称ということになっていますが、まず朝廷に対して家康個人が申請を出しているというのが一つのポイントになります。まず三河守を受領する為には、氏族における最低限の位階が必要になるということと。松平一族と家臣団に対しての差をつけることにより、支配力の向上を図ることが考えられます。要は改称によることで同じ○○松平家からの脱却と、三河守の任官による三河支配(国人・諸領主)を分かりやすくすること。
 それまでは、三河守は今川義元が任官されていましたが、桶狭間の合戦にて討死した為、事実上の空席となり、力で統一を果したので、格が必要になった為ということでしょう。権威というのは、今で考える以上当時は大きな意味を持っていたということになりますので。
posted by 武将 at 10:34 | 歴史

戦国期の松平家 その13

 さて、1565年に三河統一を果した松平家(徳川家)ですが実際に三河統一に対しての抵抗と言えば、国内で起きた一向一揆くらいで、主家筋の今川家から直接的に抵抗が無かったので、早々と統一が可能であったといえます。
 これに関しては、今川家にも事情が有ったようで、とりわけ桶狭間の合戦後に義元と共に戦死したのが、駿河・遠江の国人や城代・領主クラスに多くて自領の混乱が予想以上で、本拠の駿河は磐石であったが、分国であり強固な支配体制であった遠江に、飯尾氏を始めとする抵抗が起こり、そちらに対しての制圧・撃破に時間がかかり、気がつくと三河が制圧されていたという次第でしょう。
 清洲同盟の効果が言えましょうか、後顧の憂い無く戦えたのが、松平家躍進の鍵であったのかもしれません。しかも元来の同盟体制と違い紆余曲折がありながら、戦国時代には珍しい長期的な同盟となっていったのが、律義者と見られつつも徐々に力を蓄えて、後の躍進に繋がったのかと言えましょう。
posted by 武将 at 23:23 | 歴史

戦国期の松平氏 その12

 お互いの利害が一致したということで、清洲城に於いて織田・松平氏の同盟が成立しました。
 織田家としては、美濃の斎藤氏に全精力を傾けたいという意向と、概ね勢力が似通っている部分があるので余分な戦力を割きたくないという所と、東側の今川家・将来的には武田家の押さえになればという考えでしょう。
 松平家としては、桶狭間合戦後の親筋である今川家の混乱ぶりによる支援が得れるかが不明な部分。さらに織田家の勢いが予想以上にあったことと所領拡大という観点から見ると、西三河から尾張を窺うより、三河平定の方が実益が大きいのと、組む相手としての将来性等を総合的に判断しというところでしょう。
 無論家臣団の中でも異論があったようですが、その後の混乱ぶりからすると、三河自体は完全に今川領ではないと思える節がありますね。
 清洲同盟により、西三河を早い段階で制圧したことにより、東三河に関しては、今川から派遣されている鵜殿氏や奥平氏・菅沼氏・牧野氏辺りと戦い所領を広げていったようです。
posted by 武将 at 23:47 | 歴史

戦国期の松平氏 その11

 桶狭間以後の、織田家は確実に失地を回復しており、三河の失地回復も可能ではない勢いを持っていました。要は安祥辺りまでは信秀時代から権益を保有していたということで、奪い返しても問題は無いと言えますし、本来織田家と松平家は祖父の清康の時代から敵対していましたので…
 しかしながら、織田家は既に美濃斎藤氏に目が向いており、三河における失地回復は考えていない節が見受けられます。普通に考えれば、美濃の斎藤家も強力である為、三河国境に兵を置くこと自体が無駄と考えていたのかも知れませんし、良く言えば松平家の実力を見定め、後背を任せるべきか値踏みをしていたとも考えれます。
 西三河を制圧した段階で、松平氏の選択肢としては、親筋ある今川家に出兵を促し、尾張へと駒を進める。城代を追っていることにより今川家が松平家に対し不審を抱いているのであれば、三河統一を果し独立するという道です。結局選んだのは後者でしたが、与しやすい敵を選んだということと、母筋の水野家も深く関与していたと見るべきでしょう。
posted by 武将 at 23:42 | 歴史

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