さて、今川領を分割した徳川家ですが、順風満帆と言うわけではなく三河・遠江を治めた段階で、前述の通り武田家と険悪な状態に陥ったことにより、北条・上杉等と手を組んで牽制をしていたようです。二方乃至三方から、武田領を攻めるのであれば、流石の信玄も困惑していたでしょうが、当の徳川家がそれを行う状態ではなかったという所でした。
要は、同盟国である織田家の畿内(京)へおける上洛並びに、将軍家の即位と言いますか、実権の移動に際しての援護を務めたことと、後の朝倉家への出兵・浅井、朝倉家との決戦である姉川の戦い等に、出兵していたのが原因と考えられ、ある意味他の大名家が武田家を牽制している間は、自国が平穏であると言う前提での出兵であったということになりましょう。
この時期において、尾三同盟も対等の状態では無いと思われ、かたや尾張・美濃を押さえ、伊勢や近江等にも勢力を伸ばした、勢いのある織田家と、三河と遠江を押さえた徳川家との国力の差が出た時期と重なり、次期の実力者(権威上とはいえ足利将軍家)の力を利用することで、国内の地位を向上させた部分があるので、援軍としての参戦は断れなかったということでしょう。