桶狭間の合戦の考察 その4

さて、現実に今川義元の本隊と織田家の本隊との決戦という形になるというのは、合戦での流れで言うと自然であったとも言えましょう。無論どちらも相手が各々の本隊だとは露知らずと言う部分は、今川家に強かったでしょう。前衛の部隊が居てこの体たらくぶりですから…
 よく大将自身が刀を振るう時は、敗北に近いものであるとも聞きますが、この時はどちらも自ら白兵戦をする有様であったようです。しかしながら、白兵戦となれば、武芸の稽古を仏門に入っていた義元自身がどれほどの腕を持っていたかよりも、ここまで押し込まれたことに対して自身の軍団(旗本衆)の崩壊を早めてしまったというべきでしょう。
 最終的に、今川家は主君義元を始め、遠江の主要な国人領主の井伊・松井等が戦死したことにより所領が混乱を生んだことと、岡崎城の定番すら逃亡したことにより、松平家に岡崎帰還を許したこと。並びに後を継いだ氏真も、新たに体制を作らなねばならぬこと。
 さらにはその混乱で松平家並びに織田家が所領を回復して勢いをつけたのは事実であり、それが後々に尾を引くことになるとは、氏真には思いもつかなかったでしょう。
posted by 武将 at 23:35 | 歴史

桶狭間の合戦の考察 その3

さて、丸根鷲津の両砦を陥落させ、大高城の安全を確保した段階で、織田信長の軍勢が熱田に進出したようです。
ここで両軍の目的ですが、今川方は大高城の安全を確保したので、次は鳴海城の付け城の撃破。援護に出てくる織田勢の補足撃滅と考えれます。織田方は、丸根鷲津を落とした敵に対して、疲れの薄い直属部隊で撃破。敵に対して消耗を強いるというとこでしょうか。
 実際には、中島砦まで進出した織田勢ですがこの時と同時に今川家の前衛部隊も進出しており、これを両砦を撃破した部隊と称して攻め掛かったと有り、この前衛部隊の混乱と壊走で、本隊に波及して桶狭間山を本陣とした本隊に攻め懸かり撃破・壊走させ義元の首を得たという流れになりましょう。今川家本陣には名のある武将が幾人か同道したようであり、これらの戦死も後日の今川家崩壊の遠因になったのではとも考えれます。
posted by 武将 at 22:03 | 歴史

桶狭間の合戦の考察 その2

さて、桶狭間の合戦についてですが、流れとしては、今川義元が25000の軍を率いて、尾張の織田信長を攻めて上洛の軍を起こしたというのが有名なところでしょう。
 現実としては、鳴海・大高等が今川家の手に落ちて。それらを牽制する為に織田方が付城を築いて牽制していており、これを排除して場合によっては織田家の野戦軍を撃破するというのが、昨今での今川家の戦略だったようです。
 実際にも、朝比奈・松平の軍勢で、丸根・鷲津の両砦を攻め落として拠点である大高城の安全を確保しており、次は鳴海城を囲む砦の撃破並びに援軍として駆けつける織田軍の撃破であったのでしょう。
義元本隊も、沓掛から大高へと移動しており、翌日の指揮を執る為か、督戦する為かは分かりませんが、今回は明らかに前者になるでしょう。実際に、丸根・鷲津の両砦が陥落した時点で上機嫌であったとも有りますし。(緒戦の戦に勝って喜ばない武将はいないとは思いますが…)
そこが、付け入る時期だったのかもしれません。これを上手く成功させたのがこの戦いのハイライトかも知れませんね。
posted by 武将 at 00:16 | 歴史

桶狭間の合戦の考察

さて、甲駿相三国同盟により、背後の心配をなくした今川家でしたが。やはり都合良く事が運ぶわけではなく、重臣の朝比奈泰能や、太源雪斎の死去により先行きに僅かな陰りが見えていたようです。
ですが、ここで崩れないのが名門の力と言えましょうか!人質としていた松平竹千代に、一門の関口家の瀬名姫を娶らしており、準一門の扱いを持って三河衆を手なずけていた手口も見事と言えるでしょう。
さて、今回の桶狭間の戦いですが、色々な説が有るのも事実であり、信憑性に関しても?な説も結構ありますよね。
このあたりに関しては、明日にでも書き綴ってみます。
posted by 武将 at 23:07 | 歴史

戦国期の今川家 その6

松平広忠の死去により、岡崎城を占拠した今川家ですが、手近の安祥城に織田信秀子息の織田信広が駐留しており、その前後に松平竹千代を人質に捕られこれを取り戻すと同時に、三河での軍事的優位を確立させる戦いであったと言えます。結局捕虜交換という形で目論見は成功しており、竹千代を駿府へと移し三河の併呑を成功させています。
さらに、三国同盟により後顧の憂いを無くして尾張一本に集中できたことと、信秀死去による混乱状態により、尾張での橋頭堡を確保し徐々にではあるが、確実に尾張を侵食していったのは自然な流れであったと言えましょう。
posted by 武将 at 23:41 | 歴史

戦国期の今川家 その5

小豆坂での戦いで敗れはしたものの、北条家当主氏綱が死去してから、事態は今川家には好転しつつあったようです。
無論北条家は、氏康が継いだのですが山内上杉家と連携して圧迫をかけていたようです。この時は武田晴信の仲裁も有り、かねてからの懸案事項であった河東郡の返還という形で和睦が成立した為、東の脅威が減じたことで、三河方面に本腰を入れて取り組めたようです。
現に、三河松平家当主広忠の帰順という形で、従属化に成功しており、これに対して危機感を強めた織田信秀の三河侵攻も朝比奈氏や、太原雪斎等の活躍で撃退に成功しており、三河における権威も強めたようです。
この数年後に松平広忠の死去により本領である岡崎城を接収し、より一層三河での支配権を強めたのは、軍事力もさることながら、政治力とでも言うのでしょうか…(太原雪斎の力が大きかったとも言われてもいます)
posted by 武将 at 01:03 | 歴史

戦国期の今川家 その4

さて、本日は花倉の乱に勝利を収めた義元のお話になります。
前述の花倉の乱における武田家の支援?により正室を武田家から迎えたことにより、次第にではありますが北条家とは疎遠の関係となり、河東郡(興国寺城等を含む現在の沼津市辺りでしょうか)を巡る戦いとなり、味方に武田家や、北条家と敵対する上杉家と結ぶことにより、駿河を巡る戦いは有利に駒を進めたようです。
また、松平清康を失い有力な旗頭を失った三河に織田信秀の侵攻並びにそれに対抗する形で、今川家も対抗する形で三河へと駒を進める形になります。
ここで、起こった紛争が小豆坂の戦いであります。松平家を相続した広忠を支援する今川家と勢力拡大を図る織田家との一戦でありますが、ここでは織田家が勝利したようでありますが、斎藤家とも戦う織田家にとっては二方面作戦が確定したことによる疲弊が有るのは否めないでしょうね。
ここでも、やはり仇敵よりも血縁による力による方針転換が大きくこれにより関東に対する影響が出てきたと言えましょう。ただ義元の海道一の弓取りに関しては軍略と言うよりか政略による部分が大きい気がするということで、文をおきます。
posted by 武将 at 23:51 | 歴史

花倉の乱

さて、本日は今川家の方針転換となる出来事となる花倉の乱について
まず、方針転換という点ですが、元来今川家は北条家の上筋に辺り、この辺りはいずれ解説致します。
結局は、氏輝存命であれば北条家の関東制圧並びに、今川家の三河侵攻は容易であったのでは?ということです。無論武田家が信濃に進出できたかは不透明な部分がありますが…
氏輝自身は同じ正室の出である義元(梅岳承芳)にはある程度の期待を混めて太源雪斎に養育させたようです。その間に分国統治を纏めて、甲斐に侵攻するか、三河に侵攻するかという矢先に死去してしまったとこで、御家騒動という形で国論を分ける形になったのが前述の花倉の乱であります。
ここでの義元側の武田家の和睦が、後々に大きな影響を与えることになるのですが、家督争い時にはいかに味方を作るかが重要なのでありまして、この時は考えていたかは不明だと思いますね。
ただ、ここで玄広恵探を擁立した有力国人福島氏が衰亡したのが今川氏の権力拡大に寄与したのも見逃せないとこです。
posted by 武将 at 00:16 | 歴史

戦国期の今川氏 その3

今回は、今川氏輝について
この人は、駿河今川家8代当主です。元服がすむまでは母寿桂尼が親政していたようです。残した事績は少ないですが駿河・遠江を無難に支配を固めていました。
また、配下筋の北条氏綱と協力して、武田信虎とも戦いつつ三河へ侵攻を行うというのが、軍事面での戦歴です。しかも1535年に三河の太守である松平清康が尾張侵攻の際に、不慮の死を遂げたことにより、本格的に三河侵攻を開始しようとした矢先に、謎の死を氏輝も遂げてしまった形になりました。
もしも、氏輝がある程度の寿命があれば、義元が活躍することもなかったでしょうし、無論三国同盟も起きなかったでしょう。何故ならば三国同盟自体が、国論の変更(花倉の乱)によるものであり、場合によっては甲斐の武田氏自体も無事であったかは不明でしょう。無論三河も早期に併呑されてる可能性もあったのでは…と感じるのは私だけでしょうか?
posted by 武将 at 23:28 | 歴史

戦国期の今川氏について 2

さて、今回も前回に引き続き今川氏にて。
遠江を斯波氏の所領と化したことにより。中央で起きた応仁の乱による中央の混乱は、ある意味今川氏にとっては好都合な出来事であったのでしょう。要は斯波氏の分国である遠江の奪還が、東軍に認可されており今後の主目標に成り、国論を纏める事が可能になるということだからです。
但し、ここでも斯波氏自体の家督相続による問題が起こり元々は東軍に属していた斯波氏方と対立する形になり、今川家当主義忠が戦死してしまうことになります。ここで北条早雲が登場して家督を子息の氏親に継がすことにより、駿河の興国寺に所領を持つのですが、(この件に関してはまた後日に…)
無論氏親も、遠江奪取は主要目的になっており、度々軍事行動を起こしています。しかしながら、早雲等の影響も有り関東方面や、その先の三河や甲斐にも出兵しており、最終的に遠江を所領化したのは、その後20年掛かったようです。
この当主に関しては、今川家における基礎固め駿河・遠江の所領化並びに国人領主を統制する為の分国法を制定しており、より戦国大名としての道を歩みだしたといえましょう。



posted by 武将 at 00:21 | 歴史

戦国期今川氏について 1

さて、本日から戦国時代について自分なりに考察させて頂きたく筆を認めます。
本日は、今川家から。まずは足利家一門である吉良家の分家筋にあたります。ゲームや後の名前からのの影響でしょうか、吉良家と言えばあまり良いイメージで語られることはありません。(忠臣蔵の影響でしょうか・・・)
江戸自体の感覚で言えば、一橋・清水・田安等の御三卿に近いのでしょうか?
足利尊氏に従い戦功を挙げたことにより、駿河・遠江を領する事に成り室町期には名門と言える家格を誇る家柄といえましょう。その一族には九州下向で名を馳せた今川了俊がいます。ただこの際に大内義弘が起こした応永の乱に関わった件で、遠江は斯波氏に与えられる形と成り、応仁の乱以降の対立を生む結果となったようです。

さて第一回目は今川氏でした。室町期には名門の家格であり、それを伝える意味で記載してみました。
posted by 武将 at 00:07 | 歴史

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