戦国期の松平氏 その11

 桶狭間以後の、織田家は確実に失地を回復しており、三河の失地回復も可能ではない勢いを持っていました。要は安祥辺りまでは信秀時代から権益を保有していたということで、奪い返しても問題は無いと言えますし、本来織田家と松平家は祖父の清康の時代から敵対していましたので…
 しかしながら、織田家は既に美濃斎藤氏に目が向いており、三河における失地回復は考えていない節が見受けられます。普通に考えれば、美濃の斎藤家も強力である為、三河国境に兵を置くこと自体が無駄と考えていたのかも知れませんし、良く言えば松平家の実力を見定め、後背を任せるべきか値踏みをしていたとも考えれます。
 西三河を制圧した段階で、松平氏の選択肢としては、親筋ある今川家に出兵を促し、尾張へと駒を進める。城代を追っていることにより今川家が松平家に対し不審を抱いているのであれば、三河統一を果し独立するという道です。結局選んだのは後者でしたが、与しやすい敵を選んだということと、母筋の水野家も深く関与していたと見るべきでしょう。
posted by 武将 at 23:42 | 歴史
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