戦国期の松平家 その13

 さて、1565年に三河統一を果した松平家(徳川家)ですが実際に三河統一に対しての抵抗と言えば、国内で起きた一向一揆くらいで、主家筋の今川家から直接的に抵抗が無かったので、早々と統一が可能であったといえます。
 これに関しては、今川家にも事情が有ったようで、とりわけ桶狭間の合戦後に義元と共に戦死したのが、駿河・遠江の国人や城代・領主クラスに多くて自領の混乱が予想以上で、本拠の駿河は磐石であったが、分国であり強固な支配体制であった遠江に、飯尾氏を始めとする抵抗が起こり、そちらに対しての制圧・撃破に時間がかかり、気がつくと三河が制圧されていたという次第でしょう。
 清洲同盟の効果が言えましょうか、後顧の憂い無く戦えたのが、松平家躍進の鍵であったのかもしれません。しかも元来の同盟体制と違い紆余曲折がありながら、戦国時代には珍しい長期的な同盟となっていったのが、律義者と見られつつも徐々に力を蓄えて、後の躍進に繋がったのかと言えましょう。
posted by 武将 at 23:23 | 歴史
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