戦国期の徳川家 その1

 ここからは、三河統一を果した段階で、徳川に改称しましたので徳川家の話題から始めていきます。
 1566年に改称ということになっていますが、まず朝廷に対して家康個人が申請を出しているというのが一つのポイントになります。まず三河守を受領する為には、氏族における最低限の位階が必要になるということと。松平一族と家臣団に対しての差をつけることにより、支配力の向上を図ることが考えられます。要は改称によることで同じ○○松平家からの脱却と、三河守の任官による三河支配(国人・諸領主)を分かりやすくすること。
 それまでは、三河守は今川義元が任官されていましたが、桶狭間の合戦にて討死した為、事実上の空席となり、力で統一を果したので、格が必要になった為ということでしょう。権威というのは、今で考える以上当時は大きな意味を持っていたということになりますので。
posted by 武将 at 10:34 | 歴史
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