1568年の12月に武田家による駿河侵攻が始まったことにより、迎撃に向かった所で、駿河における有力な国人領主である朝比奈氏や葛山氏等が、見限ったところで駿河における抵抗ができなくなったことで、掛川城主の朝比奈泰朝の元に逃れたところに、遠江に徳川家の侵攻という形になったということです。
では、大名家の実力(強さ等)で見ると。徳川家は三河を抑えて、これから遠江に侵攻という状態であり、三河自体を完全に治めているかは、怪しい部分があります。武田家は、甲斐・信濃・西上野等を治める有力な大名家ですが、北には上杉氏がおり押さえの兵を残さねばならないということと、北条氏が今川氏の支援に回ったことである意味出兵前よりいささか困難な状況に陥ってしまったとこがあります。今川家に関しては、室の実家である北条家の支援を受ける形で、対抗できる状況で待ち受けていたという状態での武田家における駿河侵攻でありました。
ある意味、武田信玄の調略の凄みというのと、遠江混乱に見られる今川家の国人領主や譜代の家臣にも動揺が見られたということでしょうか…
今回は徳川家とは関係ない気がしますが…。後ほど関係してきますのでということでこの辺りで。